dedicated to my dear



 玄関を開けた瞬間、顔をしかめて立ち止まった。カラカラと引き戸を閉じて再び外に出ると、意識的に何度か大きな呼吸をした。
 間違いない、今のはシイタケだ。シイタケの臭いだ。
 とにかくシイタケが嫌いなのだ。あの臭いでシイタケの全てを否定できてしまう。とはいえ生ゴミのように誰もが悪臭と感じる臭いではないのは分かるのだ。好きな人にはあれがいかにも食欲をそそるいい香りに思えるのだろう。だからこそ腹立たしい。
 しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。第一寒い。裸のままの手の、その指先は赤く染まり、手の甲には紫色の血管が浮いている。
 意を決して玄関を開け、できるだけ鼻から息を吸わないようにして真っ先に台所に駆け込んだ。臭いの元を根絶せねば。
 「──……」
 「あ、お帰り」
 姉がいた。驚いた。帰ってくるなんて聞いていない。もちろんここは彼女の家でもあるのだから、いきなり帰ってきたところで何の問題もないが、それにしたって今日は平日だ。仕事はどうしたのだろう。
 あまりに驚いたので思わず鼻から息を吸ってしまい、もわんとしたシイタケの臭いをまともに吸い込んでしまった。ウッとうめいて鼻をつまむ。
 「ああ、あんた、未だにシイタケ駄目なの?」
 姉はそう言って換気扇を回してくれた。その優しさに顔をしかめる。眉間に皺を寄せて目を細めている私を見て、姉が笑った。
 「なんて顔してんの。もう手ェ離しても大丈夫よ。臭い殆ど逃げたから」
 そういう理由ではなかったのだが、おそるおそる手を離す。ちょっとづつ息を吸い込むと、確かに弱冠のシイタケ臭さは否めないものの、ほぼいつもの空気が鼻孔をくすぐった。
 「はあ、呼吸できる歓び」
 そう言った私に姉はくすっと笑って、シイタケの浮かんだ銀色のボウルに両手を浸した。
 違和感、というより憤りを感じた。姉は綺麗になった。ぽっちゃりしていた姉はいつの間にかスマートになり、くせ毛だった髪はストレートパーマのおかげでさらさらだ。ファンデーションを塗った肌は白く輝き、姉が常々気にしていた四角ばった顔は濃いめのチークと頬にかかるシャギーの入った髪で巧妙に隠されている。身につけているのはたぶんNATURAL BEAUTYのスーツ。どこのブランドなのかは分からないが、首にはふわりとスカーフが巻かれている。
 たぶんそれなりに頑張って、それなりにお金も使ったのだろう。しかしせっかく努力して綺麗になったのに、よりにもよってシイタケを、猛烈なシイタケ臭を漂わせるあのシイタケを戻している姉に、何だか憤りを感じたのだ。
 「何ぼけっとつっ立ってんの。座れば?」
 姉がボウルに浮かんだシイタケを見下ろしたままで言った。私は無言で姉から目をそらすと、マフラーを外し、着ていたコートを無造作に椅子にひっかけた。姉の背中に向かって問いかける。
 「今日どしたの。仕事は?」
 「有休もらったのよ。定期検診で病院行くから」
 さらりと口にされた言葉に、腰掛けようとしていた動作が一瞬止まる。思わず顔を上げたが、シイタケの浮かぶボウルを見つめている姉の背中は微動だにしない。
 「自分の病院でかかればいいのに」
 さりげなさを装ってそう言うと、何がおかしいのか、姉はきゃらきゃらと笑って、こちらに背を向けたままひらりと手を振った。
 「ヤあよ、そんなの。内科とは違うんだから。だいたいウチ、婦人科しかないし。どうせ産婦人科は別のトコになるのよ」
 「ふうん……」
 姉は市内の総合病院で医療事務として働いている。今は病院のそばのワンルームマンションで一人暮らしだ。
 一度だけ姉の勤める病院に患者として行ったことがある。白衣を着て処方箋を手渡してくれた姉は、カウンターの向こうからお大事にと微笑んだ姉は、少しも私の姉ではなくただの病院の人で、思わずアリガトウゴザイマシタと丁寧語で答えたら、姉はようやく姉の顔に戻ってバイバイと手を振った。
 荒々しく椅子を引いて、どすんと腰掛けた。どうでもいいことだ。姉の病院に婦人科しかなかろうと、有休を使ってどこかの病院に通おうと。
 相変わらずシイタケと見合いしていた姉が、そうだ、とつぶやいて、くるりと振り向いた。
 「テーブルの上、おみやげ。ビアード・パパのシュークリーム」
 「うわぁお、いつもサンキュ」
 確かにダイニングテーブルの上には見知った黄色の箱が鎮座ましましている。私は早速賞味期限のシールを剥がして蓋を開けると、行儀よく並んだシュークリームの中から一番大きくてたっぷり中身が入っていそうなのを慎重に選んだ。
 ビアード・パパは姉の住む市内にしかない。だから甘い物好きの私のために、姉のおみやげはいつもビアード・パパ。私の中でビアード・パパはもはや姉と一心同体だった。
 市内にしかないビアード・パパともうすぐ他人になる姉。
 私もいつかはビアード・パパなんて珍しくもない環境に住むかもしれないし、もっとおいしいデザートをたくさん知るかもしれない。それでも私は、このバニラビーンズの甘い匂いをかぐたびに、ビアード・パパの黄色いテント屋根を見かけるたびに、姉を思い出し、妹でしかなかった自分を思い出すのだろう。
 「いただきっ」
 さく、とパイ生地のようなシュー皮にかぶりつく。途端にバニラビーンズの入った卵色のカスタードクリームがとろりとこぼれてきて、これはアタリだと心の中で喝采を上げる。それを舌で舐めとりながらほわんと膨らむ甘さを楽しんでいると、目の前に無言でコーヒーが置かれた。
 「──……」
 私はしばらくなみなみとコーヒーが注がれたマグカップを見下ろしていたが、やがてぺこりと小さく礼をすると、それを手にとった。冷え切っていた指先にその熱がじんと滲みる。
 姉は私の向かいの椅子に腰掛けて、自分の分のマグカップを片手にテーブルの上の新聞を手に取った。手持ちぶさたなのだろう。ぼんやりとテレビ欄を目で追っている。
 私はコーヒーを一口すすると、椅子の上に片足を乗せて片膝を立てた。姉がそれを見て顔をしかめる。
 「何よ、行儀悪いわね」
 「スパッツはいてるもん」
 「うわ、夢ないことしてるし」
 「ガッコにいる時はジャージはいてるよ。ウチ帰る時は脱いでくる分、私はまだまだドリーマーだね」
 姉はせわしない瞬きをしながら、バサリと新聞をたたんだ。考え込むように首を傾げて、また瞬きを繰り返す。
 高校に進学した時コンタクトに変えてから、目が乾くと言って姉はやけに瞬きするようになった。目に合っていないのではないか、眼鏡に戻した方がいいのではないか、と私も両親も散々言ったのだが、姉は頑なにコンタクトを続けている。
 それは姉が元々一重だったことに由来する。両親ともくっきり二重で、妹である私も両親に負けず劣らず大きな目をしているのに、姉だけがなぜか一重で、姉はずっとそのことを気にしていた。自分は両親の本当の子供ではないかもしれない、と真剣な顔で私に訴えたこともある。
 激変はコンタクトで訪れた。コンタクトを入れた瞬間、なぜか姉の目が二重になったのだ。初めてコンタクトを入れた日の姉の喜び様といったら、それはそれはすさまじかった。涙さえ浮かべて手鏡に見入っていたあの日の姉は、両親と私の間で未だに語りぐさになっているほどだ。
 かくして姉はコンタクト信者になった。もうコンタクトを入れなくてもしっかり二重のラインが癖づいているにもかかわらず、コンタクトをやめたら一重に戻るかもしれないと思っているのだろう、目が乾くと文句を言いながらも姉はコンタクトを手放さない。
 その姉はようやく瞬きを止めると、首を傾げたままで目線だけを私の方に向けた。
 「そのジャージってもしかして、あの輝かんばかりの緑にまぶしい二本の白ラインが入った……」
 シュークリームを片手に手を振った。それは姉の通っていた高校のジャージだ。
 「ウチは小豆色。目もくらむほどの鮮やかな小豆色に白銀を思わせる二本の白ライン」
 姉はアハハ、と高い笑い声を上げて、顎をのけぞらせた。肩の辺りで切りそろえた髪がさらりと揺れる。
 「紺のスカートに小豆色のジャージ!そこまでダサいとある意味前衛的よね」
 そして薄いピンクのマニキュアを塗った指で、長く伸ばして頬を隠している前髪をかき上げた。それはかき上げたその瞬間から、さらさらと元の位置に戻っていく。
 ロレアルのCMみたい。そんなことを考えながら、私はシュークリームにかぶりついた。あとからあとからクリームがこぼれてくるので口を離すわけにはいかない。必死になって甘さを味わう。
 姉はまだしつこく笑っている。自分の言った『前衛的』という言葉にハマっているのだろう。私は黙ってシュークリームの最後の一口を口に放り込んだ。熱いコーヒーで口に残った甘さを洗い流して、フンと鼻を鳴らす。
 「笑わば笑え。丘の上の王子様だって冬は下にジャージはいてたかも」
 「……ジャージはいてる時点でそれはもう王子様じゃないでしょう」
 やけに難しい顔をしてそう言った姉に、私は軽く身を乗り出して人差し指を突きつけた。
 「丘の上は寒いのよ?手がかじかんでパグパイプも吹けないなんて、そっちのほうがよっぽどdisqualified princeじゃない」
 ああ、やってしまった。
 たまたまこないだやった予備校のテキストに出てきたものだから、無意識のうちに口にしてしまった。案の定『disqualified』に姉は戸惑ったように視線をさまよわせ、やがて俯いた。しまったと思う一方で、姉が微笑んでいることに心の中で目を見張った。
 姉はもうあの時の姉とは違うのだ。
 ──勉強できるのがそんなにえらいわけ?
 そう、何がきっかけになってこういう会話の流れになったのかは忘れてしまったが、あの時姉は吐き捨てるようにそう言って、ギラギラした敵意と衝動を込めた眼差しで私をにらみつけたのだ。
 投げつけられた言葉に潜むのは明らかに昨日今日生まれたばかりの感情ではなく、それでようやく、年下である私が姉の知らない言葉を発するたびに、姉がどんな気持ちでいたのかということに思い至った。
 私はすました顔で、えらいよ、と答えた。姉がテレビを見ている間私は勉強していたし、姉が漫画を読んでいる間私は勉強していた。だから私の方が勉強ができる。私だって決して勉強は好きではなかったし、元々頭がいいわけでもなかった。努力したのだ。努力したから姉より四つもランクが上の、学区内トップの高校に進学できたのだ。姉のそれは遊んで生きてきた人間の妬みだと思った。優越感と誇らしさで思わず笑みが浮かんだ。
 姉は一瞬きょとんとしたように私を見て、くしゃくしゃに顔を歪めたかと思うと、いきなりぽろぽろと涙を流し始めた。顔を真っ赤にして、鼻の頭に皺を寄せて、低いうなり声さえ上げながら。
 私は何も泣かなくてもというあきれ半分、泣くぐらいなら今からでも勉強すればいいのにという苛立ち半分で、結局何も言えずに、棒立ちのまま涙をこぼす姉をじっと見守っていた。ただそれ以降、姉の前では無駄に難しい言い回しをしないように心がけるようになった。
 その後姉は進学することなく就職の道を選んだ。そして私は、大学へ進学する。たぶん合格するだろう。東大京大には遠く及ばないが、それでも近所の人にはすごいね、と言ってもらえる大学だ。
 「──……」
 姉は隣の椅子に置いていたBURBERRY BLUE LABELのトートバッグをごそごそと引っかき回してあぶらとり紙を取り出すと、それを小鼻にあてて、ほう、とため息をついた。
 どんどん化粧の上手くなる姉。変わらない私。
 私はちっともえらくなんかなかったのだ。
 私がスカートの下にジャージをはいて学校の硬い椅子に座っている間、姉は白衣を着て働いている。そして自分で稼いだお金で家を借りて、食材を買って、自分で作って、綺麗な洋服や化粧品を揃えて、私のためにビアード・パパを買いに行く。
 私が勉強しなくなっても誰も困らないが、姉が働かなくなったら困る人がたくさんいる。私が死んでも誰も困ることはないが、姉が死んだら困る人がたくさんいる。ましてや姉のお腹には新しい命が宿っており、結婚も間近だ。もうすぐ義兄さんになるあの人は、もし姉が突然死んでしまったらどうするだろう。
 姉は今年二十二歳になった。私が今の姉と同じ年になる頃、私は未だに親の住むこの家から、親の稼いだ金で、今度は大学という学校へ通っていることだろう。住む場所も食事も全て提供してもらって、相変わらず硬い椅子に腰掛けているわけだ。
 「お姉ちゃん」
 「んー?」
 くしゃくしゃとあぶらとり紙を丸めてすぐ後ろのゴミ箱に捨てながら、姉が生返事を返す。
 「結婚しても、ずっと私のお姉ちゃんでいてね」
 こちらを振り向いた姉はあっけにとられたような表情を私に向けると、眉をひそめて首を傾げた。
 「何ゆってんの、あんた。頭オッケー?」
 「いやあ、ウチいる時まで気合い入れて化粧すんなよという気持ちを、いささかポエティックに表現してみました」
 ふと姉の表情が曇る。しばらく悲しそうな顔でマグカップを両手で包んだ私をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと唇の端をつり上げた。
 「あんただって、そのうち一張羅着て化粧して、手みやげ持って赤ん坊抱いて、この家にお年始の挨拶しに来るようになんのよ。今年もよろしくお願いしますぅ、とかゆって」
 「そんなもんかねえ」
 「そんなもんデス」
 そう言って姉は一人で頷くと、マグカップに手を伸ばしかけたが、急に思い出したように宙をあおいで、再びバッグを引っかき回し始めた。これこれとつぶやきながら、手のひらに乗る小さな白い封筒を私に手渡す。
 「何これ」
 「いいから開けてみ」
 そう言って、手のひらを私に向かって差し出す。ドウゾ、という意味だろう。
 封筒を逆さにして軽く振ると、中からお守りが飛び出してきた。『学業御守』と金の糸で刺繍された純白のお守り。
 「ウチのダンナがね、こないだ九州に出張だったんだ。緩和ケア病棟の視察でね。そん時に太宰府天満宮の近くに行ったからって、あんたのために買ってきてくれたの」
 「──……」
 「もうすぐでしょ、受験。頑張ってね」
 呆然とお守りを見つめていた私は、姉の穏やかな声に顔を上げた。姉は微笑んでいる。かつて勉強できるのがそんなにえらいのか、と泣いた姉が、微笑んでいる。私は呆然とした顔のまま口を開いた。
 「ありがとうって、頑張るって、ゆっといて」
 「うん」
 姉は満足げに頷くと、どこか照れくさそうに視線を伏せて、再び新聞を手に取った。
 私はもらったお守りをぎゅっと握りしめて、それを大切にスカートのポケットにしまった。
 結婚が決まってから、姉はあの人のことをカレシではなくダンナと呼ぶようになった。
 子供ができるぐらいだから、ダンナと姉は幾度もそういうことをしたのだろう。だから彼はきっと、私の知らない姉をたくさん知っている。
 けれど彼は、一生知ることはできない。
 姉が一重だったこと、もらわれ子かもしれないと真剣に悩んでいたこと、四角張った顔を気にしていたこと、下を向くと首の肉に顎が埋まっていたこと、ショートカットにしたらサリーちゃんのパパみたいになったこと、白ラインの入った緑のジャージをはいていたこと、妹の一言に大泣きしたこと。
 これらの記憶を共有している両親は、どうせ私より先に死ぬ。だからあと何十年かしたら、こんな姉の姿を知っているのはこの世で私一人だけになるのだ。
 「そうそう、結婚式の日取り、やっと決まったから。あんたの受験の日は外したし」
 姉が新聞に目をやったままで言った。私はひょいと肩をすくめて小首を傾げる。
 「別にいいのに。気にしなくても」
 「何ゆってんの、あんた。頭オッケー?」
 さっきと同じセリフを繰り返して、姉は私にちらりと視線を向けると、フフンと小さく笑った。私も思わず笑って、椅子の背に身を投げだす。天井を見上げたままで姉に言った。
 本当に、結婚しても、ずっと私のお姉ちゃんでいてね。
 「などということが言えるはずもなく」
 「は?」
 「まあとりあえず、ビアード・パパ食べなよ」
 あなたのお金で買ったビアード・パパに、言葉にできない妹からの愛をこめて。
 私は黄色い箱を姉の前に押しやった。身を起こしながら、とびっきりのウィンクを姉に向ける。
 姉は面食らったようにいつものせわしない瞬きを繰り返していたが、やがてありがとう、とつぶやいて、ビアード・パパのシュークリームに手を伸ばした。



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